山形県酒田市 × 産業観光

最上川が育んだ大地と、北前船が運んだ”湊町文化”が融合し発展した山形・酒田

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山形県北西部、庄内平野の北部に位置する酒田市。遥か昔から最上川と庄内平野が育んだ大地の恵みと、北前船が運んだ物、人、文化が融合し発展してきました。東京から空路約1時間、そこからリムジンバスで約40分でアクセスできる、最上川が日本海と出会う湊町、酒田を訪ねる旅へとでかけませんか?

日本海と最上川が交差する、河口に発展した湊町・酒田

山形県北西部、庄内平野の北部に位置する酒田市。日本海に面し、北に鳥海山、東に出羽丘陵を望む、山海に囲まれた自然豊かな地域です。最上川が日本海へと注ぐ酒田湊(さかたみなと)は、かつて西廻り航路の中心地として、さまざまな物、人、文化を乗せた北前船が行き交い、独自のみなと文化を育みました。北前船によって莫大な財を成した豪商が生まれ、酒田はその豊かさを謳歌したのです。

酒田湊は、海上交易と最上川の舟運の要でした。山形1県のみを貫流する最上川は、山形県の南端、吾妻山群を源とし、いくつもの盆地や峡谷を抜けて北流した後、庄内平野を通って日本海へと注ぐ、河川延長約229kmの大河です。サケやアユが生息するほどの良好な水質を誇り、豊かな水は米や農産物作りに大いに活かされ、平安時代には舟運が始まるなど、この地域の人々にとっては大いなる恵みの川でした。

肥沃な庄内平野を作ったのも最上川を中心とした河川です。その昔、海へと続く内湾状の潟湖(せきこ)だったところに、上流域から河川の水が土砂を運び堆積してできたのが庄内平野です。この地で本格的にコメ作りが始まったのは、8世紀初頭、奈良時代に入ってからのこと。流されてきた土砂と豊かな雪解け水、夏の長い日照時間、昼間の高い気温と涼しい夜といった気温差が、質の高い米を実らせました。当然ながら、良質な酒米と、清らかな水、気候風土があってこそ上質な日本酒が生まれます。雪に覆われるこの地域では冬に農作業ができないため、農家の人々が冬の仕事として酒造りを行うといったサイクルができたことも、日本酒が盛んに造られてきた一因のようです。

空から平野部を見下ろせば、広々とした平坦な水田がずらりと並んでいるのが分かるはず。日本有数の穀倉地、庄内平野では現在においても、「はえぬき」「つや姫」「ひとめぼれ」といった上質な米を生産しています。また、日本酒では市内に7つの蔵元があり、「初孫」「上喜元(じょうきげん)」などがはよく知られた銘酒です。

「西の堺、東の酒田」と称された西廻り航路の中心酒田湊の繁栄

酒田の繁栄への道は、西廻り航路の整備から始まったと言えます。西廻り航路とは、江戸の商人、河村瑞賢(かわむらずいけん)が17世紀後半、幕府の命を受け、最上川流域の天領で作った年貢米を江戸へと安全に素早く運ぶために整備した日本海海運ルート。北前船がこの航路を行き交い、後に物流の大動脈として発展していきました。

この西廻り航路の中心だった酒田は、江戸時代中頃、廻船問屋97軒、年間2500~3000艘もの船が出入するなど、湊は「帆柱の林」と表現されるほど活気に溢れ、各地から集まった荷物や人々で大いに賑わっていました。商人の町としての繁栄ぶりは、井原西鶴の代表作でもある浮世草子『日本永大蔵』(にっぽんえいたいぐら)に、「西の堺、東の酒田」と表現されていたほど。

実際に酒田湊で取引されていた積み荷をみると、最上川流域の村から集められた農作物が中心で、例えば、米、高い品質を誇った紅花、青荢(あおそ、麻)といったこの地域の特産品のほか、大豆や小豆といった豆類、菜種、蝋や漆、タバコなどが上方へと運ばれました。そして帰りの荷には、紅花で染めた京友禅、振袖などの着物、雛人形といった高価なものから、木綿や茶、塩、魚、古手(古着)、日用品、さらには仏像や石灯籠なども積み込まれ、上方の文化とともに酒田に届けられました。

酒田三十六人衆と本間家

廻船問屋を営む豪商「酒田三十六人衆」なしに酒田の繁栄を語ることはできません。彼らは、商人なら誰もが憧れたという町の中心地、本町に屋敷を構え、町政をも担い、町の基礎を築きました。
なかでも、三十六人衆の筆頭、本間家は「日本一の大地主」といわれ、殿様以上の財力を誇るほど。中興の祖、三代当主の本間光丘(ほんまみつおか)は、藩主酒井家のために幕府巡見使用宿舎として二千石の格式ある屋敷を建造。武家造りと商家造りが融合した珍しい建築様式を誇る、風格ある長屋門を備えています。

光丘は、「公益のために財を惜しむなかれ」という格言を残しており、その言葉通り、庄内藩の財政改善に取り組み、私財を投じて西浜にクロマツを植林し、砂防林作りに尽力しました。また、京都や近江から大工を招いて建立した浄福寺を寄進したり、港湾労働者の失業対策として本間家の庭園や別邸を建造するなど、北前船で得た莫大な富を社会に還元したのです。こうした公益の精神はその後も続き、下日枝神社の拝殿は19世紀末の大地震で倒壊した際、本間家が修復したと記録されています。

現在一般公開している本間美術館の敷地内にある「鶴舞園」は、鳥海山を借景とした池泉回遊式の庭園で、北前船が運んだ、例えば、北海道カムイコタンの石、佐渡の赤玉石、伊予の青石など高価な石が配され、各地との交流の様子が見えます。京風の純和風建築の「清遠閣」は、本間家の別邸で、酒田の迎賓館としても使用されてきました。
 

北前船とともに伝来し発展した高度な湊町文化

船を用いた交易や人々の往来による交流によって運び、伝えられた文化や産業が発展し、その土地で独自に生み出されたものを幅広く「みなと文化」と呼んでいます。西廻り航路が整備された日本海沿岸には、「みなと文化」が息づく町が多く残されており、酒田もそのひとつです。上方の文化、芸術、芸能なども取り入れつつ、酒田の商人らの生活に溶け込んでいきました。

 京から伝わったひな人形、傘福

富を蓄えた酒田の商人は競って京都の雅なもの、風流を求めたそう。そのうちのひとつが京都の雛人形でした。贅を尽くした風格ある「お雛さま」は富の象徴のひとつだっととも言われています。その時代ごとの流行りもあり、例えば、享保雛、治郎左衛門雛、古今雛など、人形の数や大きさ、スタイル、表情すら異なるさまざまなタイプの雛人形が北前船に乗ってやってきました。庶民らは、商家に飾られた豪華で雅な雛人形を見て回ったといいます。毎年3月に開かれる「酒田雛街道」のイベントでは、旧家が保管していた貴重な雛人形を見ることができ、当時の繁栄の一端を垣間見るでしょう。

傘福(かさふく)も、北前船に乗って京都から伝えられた文化のひとつと考えられます。京都祇園祭りで巡行する傘鉾(かさほこ)の豪華な飾り宝尽くしのつり下げ物は、厄除けの意味を持っています。それが、酒田に入ってきて、山王祭の傘鉾に影響を与えました。その後、祭礼としてではなく寺社仏閣への祈願のための奉納物として「傘福」が作られるようになったとの説があります。酒田の傘福は、日本三大つるし飾りのひとつであり、傘の部分に天蓋が付いているのが特徴。子孫繁栄や無病息災、幸せを願いながら着古した着物を解いてつるし飾りの細工物を仕上げ、神社仏閣に奉納していました。つるす細工物はウサギやさるっこ、唐辛子、花々など100種類にものぼるそうです。

酒田を代表する格式ある料亭だった「山王くらぶ」では、豪華な酒田傘福を展示しているほか、傘福のつるし飾りの製作体験もできます。

旧家などで古くから大切に受け継がれてきた贅をつくした雛人形、傘福などを展示し、一般に公開するイベント「酒田雛街道」は毎年3月頃に約1カ月間、開かれます。北前船に乗って京都などの上方、あるいは江戸から届けられた雛人形とを見るチャンスです。本間家旧本邸、相馬樓、山王くらぶ、山居倉庫などに展示されます。

もてなし文化としての料亭と舞娘あそび

北前船が行き交う酒田湊は、常に船乗りが訪れる活気溢れる湊町でした。船乗りはつかの間、遊所で芸妓の唄や踊りを楽しみ、商人らは接待や商談の場として遊所を訪れたと言います。酒田の料亭文化は、この遊所をそのルーツとしています。江戸時代から、格式が高いとされていた今町の遊所が、19世紀末頃、料亭街へと生まれ変わりました。商人らは料亭での贅をつくした料理と芸妓を呼んでのお座敷遊びに興じ、酒田の花柳界は芸妓約100人を抱えるなど最盛期を迎えました。戦後、芸妓の数が激減し、消滅の危機もありましたが、江戸時代から約200年続いた「相馬屋」の建物を修復し、「相馬樓」として料亭文化を復活させたのです。現在、酒田舞娘の踊りを見ながら食事を楽しめるようになりました。
 

最上川に魅せられた文人墨客が訪れた酒田

酒田の繁栄に大きくかかわった最上川は、四季折々の変化に富んだ風光明媚な景観でも、多くの人々を魅了しています。文人墨客も例外ではありません。北前船の往来で賑わっていた17世紀後半、酒田の商人、近江屋三郎兵衛に招かれた松尾芭蕉。酒田に滞在し、「暑き日を海に入れたり最上川」という句を詠んだことを『奥の細道』に記録しています。また、美人画で知られる竹久夢二は酒田に幾度となく滞在し、創作活動を行ったそう。相馬樓に併設される竹久夢二美術館では夢二の作品に触れられます。

じっくり滞在して楽しみたい酒田散策

ゆっくりと散策し、まるで“暮らすように”この地に身を置くことで、湊町酒田の今日へとつながる文化、豊かな人々の暮らしに触れることができます。まちを歩けば、京の雅な風情と酒田独自の伝統や文化が今も街角に色濃く残されています。

JR酒田駅から半径2km圏内には、本間家ゆかりの旧本邸、別邸、本間美術館(鶴舞園、静遠閣)、下日枝神社や光丘神社をはじめ、日和山公園、旧鐙屋、山王くらぶ、相馬樓といった歴史と伝統を感じる豪商の屋敷や建物、空間が点在し、かつての酒田の繁栄が偲ばれます。

また、酒田を代表する風景となっている土蔵造りの山居倉庫は、明治期に米の保管倉庫であり、品質管理、生産性向上のために建てられました。12棟が現存しており、うち9棟は2022年まで農業倉庫として現役使用されていました。そのほかの倉庫は現在、観光物産館および庄内米歴史資料館として一般公開されています。

地産地消の美食、酒田フレンチ

日本海の新鮮な海の幸、山の幸、肥沃な大地で収穫された米や、旬の野菜などの食材をふんだんに使った料理は酒田滞在中の大きな楽しみのひとつ。なかでも、「酒田フレンチ」と呼ばれるフランス料理を目当てに酒田を訪れる人もいるほど。フランスや東京で修行したシェフが、この大地が育む食材に魅せられて、酒田で店を構え、地産地消にこだわって食材から季節を感じられるような、旬の味覚と風味を大切にした「酒田フレンチ」を創り出します。もちろん、ペアリングの1杯は、地元の美味しい酒米を使った旨い日本酒で。

自然を満喫、ハイキングや砂丘を楽しむ

海と山の豊かな自然を体験できるスポットが点在するのも酒田の魅力です。5~10月にかけては霊峰・鳥海山(2,236m)で気持ちの良いトレッキングが体験できます。鳥海山と日本海沖の離島の飛島とともに、日本ジオパークに認定されいます。初心者から上級者まで、それぞれ難易度の異なるルートが整備されているので、自分のペースで楽しめます。経験豊富な山のガイドとともに歩くのがおすすめ。途中、イヌワシに出会うチャンスも。深緑、高山植物、紅葉といった季節を感じながらの2時間程度のハイキングコースも整備されています。

日本海沿いのビーチ、そして日本一の長さを誇る海に面した庄内砂丘(約35㎞)も酒田で体験できる自然のひとつ。砂丘は本間家が砂防林を植樹した西浜から湯野浜まで続き、ビーチからの夕日や、鳥海山の美しい稜線を遠望しながらの浜辺のウォーキングや夏は海水浴も楽しめます。水はけがよく、松林に守られた砂丘地ではメロンやスイカの栽培が行われています。

酒田の「自然」「文化」がギュッと凝縮、まるごとつまったコース

湊町、酒田の往時の繁栄を知り、みなと文化や大自然を満喫しつつ、育まれてきた独自の文化や伝統を体験する2泊3日のツアーに参加するのもおすすめです。大人から子どもまで、親子3世代で楽しみと学びの多い夏休みの旅行にいかがでしょう。

日本海沿岸を進む北前船の航路で酒田を訪れることはできなくなりましたが、東京・羽田空港からは空路約1時間で庄内空港へ。空港連絡バスを利用して酒田市内までは約40分というアクセスの良さ。また、仙台市内からは車で約2時間10分、高速バスも運行されており、約2時間50分でアクセス可能です。「日本の中心」といわれた酒田のみなと文化や大自然を楽しむ旅へ出かけませんか?