特別寄稿 丁野 朗 氏

石から読み解く中世・近世のまちづくり 福井県 白山平泉寺・一乗谷朝倉氏遺跡

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近年、観光地として注目を集める福井県。 その北東部嶺北地域にある勝山市には、かつて「宗教」「石」をキーワードとした巨大な宗教都市が存在した。 2019年5月、この地域の物語が新たに日本遺産に認定された。そこで、この地域の過去・現在・未来を考察します。 文化観光の分野で日本遺産の設立や日本文化の継承と発展に長年携わり、公益社団法人日本観光振興協会総合調査研究所の顧問でもある丁野 朗(ちょうの あきら)氏による連載寄稿・第11弾。

<中世のまほろば>

北陸新幹線の敦賀延伸を機に、福井県が一躍脚光を浴びている。駅前には、動く恐竜像がうなり声をあげ、ここはさながら恐竜王国のようだ。県東部に位置する勝山市にある県立恐竜博物館は、いまや全国区の人気を誇る観光スポットになった。
 だが、同じ勝山市内の山間の地には、京都や奈良では出会うことがない壮大な寺院がある。平泉寺白山神社である。白山信仰の越前側の拠点として、泰澄が717年(養老元年)に開山したとされる。国史跡の旧境内の面積は約200ヘクタール、東京ドーム40個分以上の広さがある。

中世都市へのエントランス白山平泉寺(福井県勝山市提供)
白山平泉寺拝殿(苔の名所としても有名)

その白山平泉寺が2020年6月、福井市の一乗谷朝倉遺跡などとともに日本遺産に認定された。福井市と勝山市のシリアル型の日本遺産「石から読み説く中世・近世のまちづくり」である。
 日本遺産認定のはるか前、1989年(平成元年)から、勝山市は平泉寺の遺跡について、その全体像の確認と、坊院跡の発掘調査を開始した。5カ年計画で順次調査を進め、今や35年を超えた。しかし、これまでの調査では、発掘は未だ全体像の僅か1%にとどまる。平泉寺は依然として謎に満ちた宗教都市(中世のまほろば)である。
 調査の対象範囲は広く、坊院跡が残る南谷・北谷だけでなく、現在も住民が生活する集落、山地、白山信仰の禅定道なども含まれる。これまでの発掘調査から取得された遺物からは、かつての僧たちの坊院での暮らしや高度な土木技術、海外からの伝来を伝える仏像や茶を嗜む道具などが多数出土した。これら高い生活文化を備えた暮らしの痕跡は、日本遺産認定とともに整備された「白山平泉寺歴史探遊館 まほろば」で鑑賞することができる。来年2025年は、平泉寺白山神社のご神体を33年に一度公開する「三十三式年祭」の年にもあたる。


<甦る石造りの中世都市>

 平泉寺白山神社について、もう少し詳しく見ておこう。
 平泉寺白山神社を開いた泰澄は越前の出身で、越知山で修行したのち、女神(白山大神)の招きに応じて、勝山の地に平泉寺を開いた。その平泉寺白山神社の一角に滾々と水が湧き出る御手洗池(平泉)がある。その泉のほとりで祈っていると、女神が出現、白山登拝を促したという。そこで泰澄は、二人の行者を伴って、白山に十泊以上かけて登拝した。これが白山の開山と伝えられている。
 白山平泉寺は、霊峰白山(2,702m)の越前側登拝口に開かれた山岳寺院として発展したが、その後、加賀の白山本宮、美濃の長滝寺の3つの馬場が開かれ、それぞれが白山信仰の拠点となった。
 白山平泉寺は、後の承安2年(1172)に比叡山延暦寺による講堂が落慶した。以来、比叡山延暦寺の末寺となったことをきっかけに、全国から僧侶が集まった。そして中世の最盛期には国内最大級の宗教都市として栄えた。
 以来、九頭竜川流域の荘園や免田からの収入などを基に大きく発展し、最盛期の戦国時代には、48社・36堂・6,000坊が建ち並び、寺領9万貫(石)、僧兵8,000人を擁するという戦国大名にも匹敵する繁栄を誇ったと言われ、その規模は、比叡山延暦寺をも凌駕するとも言われた。
 しかし、その繁栄は16世紀に、突如終焉を迎える。天正元(1573)年以降、越前一向一揆勢に攻められ、焼き討ちによって全山が灰塵に帰した。近世以降、福井藩主などの庇護によって一部復興するものの、その規模は6坊2寺、寺領350石と、最盛期とは程遠いほどに縮小した。
 中世に6,000坊もの寺院が建ち並んだ一帯は、その後、山林や田畑として山中に埋もれてしまい今日に至っている。さらに追い打ちをかけるように、明治の神仏分離政策によって平泉寺寄進寺領は全て没収となり、平泉寺の寺号は廃止、現在は白山神社が正式な呼称となっている(本稿では全て白山平泉寺の呼称を用いる)。
 その白山平泉寺は、大正時代になって、史跡指定のために福井県の調査が入る。白山神社境内の三十三間遥拝殿跡や三宮拝殿跡の礎石群などの平面測量図とともに、平泉寺時代の旧構や規模が、改めて大きく評価されるに至った。これらの調査の結果、昭和5(1930)年には、白山神社社務所東側の旧玄成院庭園が国指定名称となり、さらに平成10年には白山神社境内の約14.6ヘクタールが「白山平泉寺跡」として国史跡に指定された。
 その流れを受けて、後に始まったのが、先にみた勝山市教育委員会の発掘調査である。この調査では、後背地の山の斜面を階段状に造成した見事な坊院跡、これらを縦横に結ぶ石畳の道、大量の土器・陶磁器、さらには平泉寺山中の砦や堀跡など、国内でも例を見ない石造りの中世都市の姿が浮かび上がってきたのである。

発掘された南谷の石畳跡
南谷坊院跡発掘現場(白山平泉寺)

この調査の結果を受けて、平成20年からは文化庁が史跡整備に乗り出した(史跡等総合整備活用推進事業)。この事業では、歴史的建造物の復元、園地整備、ガイダンス施設建設、坊院区画の遺構表示、平泉寺へのエントランス・見学路・便益施設の整備などである。この中で、坊院区域の遺構表示や歴史的建造物の復元は、先の発掘調査の中心であった南谷三千六百坊跡が中心となった。建造物の復元としては、当時の中規模坊院跡が選ばれ、その格に応じた薬医門と厚手の板葺屋根などの構造物が復元されている。全体に装飾性を抑えた簡素な建物である。

南谷坊院の復元現場

<日本遺産に認定された白山平泉寺・一乗谷朝倉氏遺跡>

 先の発掘調査では、苔むした社寺跡から中世の石畳道が次々と姿を現し、石造りの泰澄大師廟や楠木正成の墓、無数の石仏なども発見された。この平泉寺の石組技術は、やがて一乗谷の石の都市づくりに繋がった。
 平泉寺全山消失後の文明3(1471)年、朝倉氏は一乗谷を拠点として城郭を整備する。平泉寺の石組みの技術は、その一乗谷朝倉氏居館の造営技術にも受け継がれた。一乗谷城下町の入り口には巨石を5mもの高さに積み上げた城戸が威容を誇っている。

一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)
一乗谷朝倉氏遺跡下城戸跡

 朝倉氏の居館跡や家臣の屋敷跡には石垣の区切りや礎石が数多く残されている。笏谷石製の井戸枠やバンドコ(行火)、などが往時の城下町の賑わいを伝えている。
 天正元年(1573年)、織田信長と朝倉義景の戦いで一乗谷が滅びたのち、越前を拝領した柴田勝家は福井市中心部の北ノ庄に7層(9層とも)の天守や笏谷石製の瓦が葺かれた城下を開いた。徳川家康が天下を統一して以降は、結城秀康が越前に新たに城(のちの福井城)を築いた。今に残るこの城は、四重の堀に約4万個とも言われる笏谷石の石垣や天守台が設けられ、日本一壮麗な城と言われた。
 随所に用いられた笏谷石は、至近距離にある足羽山から大量に供給され、松平家の菩提寺大安禅寺の廟所「千畳敷」や福井藩主松平家別邸の「養浩館」などにも数多く用いられている。この笏谷石は、北前船の船底に入れられて全国各地に運ばれ用いられたことでも有名である。
 一乗谷には、かつての博物館を移転改装し、2022年10月に新たに「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館」がオープンした。博物館では、この地域の地形模型や朝倉義景館の復元模型、一乗谷発掘調査で出土した陶磁器、石製品、木製品、金属製品などを展示し、特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡の状況や越前朝倉氏の歴史と戦闘、当時の人々の生活(信仰、住居、食事、生活品等)などのテーマに沿って紹介されている。
 「石から読み説く」というこの物語は、石の採掘・加工を担った職人たちの技術・技能が時代を超えて、この地域共通の都市計画の底流をなしているというストーリーである。
 この日本遺産認定を活かそうと、2020年10月下旬、笏谷石の石切場跡地を活用した「丹厳洞」(料亭)で記念フォーラムが開催され筆者も参加した。コロナ禍でもあり、ホールではなく、日本遺産構成資産を代表する空間で小人数を集め、その様子をライブのテレビとオンラインで配信するという新たな試みでもあった。
 地域の歴史とこれらを支えた技術は連綿と移転(トランスファー)し、新たな文化を切り拓いていく。石から読み解くこの日本遺産物語は、そんなことを教えてくれる。
 

<文化資源を活かす観光のあり方>

話を再び平泉寺に戻そう。白山平泉寺の史跡整備計画の一環として、平成24年秋には、白山神社参道入り口にガイダンス施設「白山平泉寺歴史探遊館まほろば」がオープンした。史跡平泉寺はもとより、白山の歴史・自然・文化に関する展示、発掘調査で出土した遺物などが展示された総合案内所である。

参道入り口にできたガイダンス施設「歴史探遊館まほろば」

 史跡整備が進むにつれ、それまで殆ど見かけなかった観光客の姿が徐々に増えてきた。平成29年の観光客は年間36万人に達し、平成26年の9万人の4倍にも膨れ上がった。これまで見たこともなかった大型観光バスの姿も見られるようになった。
 しかし、平泉寺の敷地内には、今でも120戸の民家があり、突然の観光客の急増に、少なからず混乱も見られた。平穏な日々の生活リズムが大きく変化することに対する抵抗は当然のことであろう。
 そんな中、勝山市では令和2年度から、文化財保存活用地域計画の策定に踏み切った。対象エリアはもちろん勝山市域全域だが、白山平泉寺エリアも含めて、地域の文化財の中長期的な保存と活用の長期計画の策定である。
 この計画では、文化財の価値を解明し、守り育てることを基本に、その価値と暮らしを次世代に引き継ぎ、内外に発信することを通じて、歴史と共に育まれてきた生業と産業を新たに生み出していくといった基本方針と措置が盛り込まれている。計画は令和4年12月、文化庁に認定された。
 この計画にみられるように、文化財や文化資源の保全と活用には、中長期的な地域ビジョンが不可欠である。多くの観光客が訪れるからといって短期的な活性化を狙った事業に走ると、のちのち取り返しのつかない事態になることも少なくない。これは既存の世界遺産地域でも既に経験済みのことでもある。
 白山平泉寺には、コロナ禍前には、フランス人など欧州の観光客が少しずつ増えていた。フランスのTV局の取材も入ったことがある。クルーたちは撮影の合間、南谷の坊院発掘現場で寝そべり、悠久の時を楽しんでいるかのようだったと聞いている。ここはやはり歴史の時を感じる静寂な空間が魅力的なのであろう。
 

<地域の暮らしに根ざした持続的観光を目指して>

 こうした課題を考えながら、日本遺産認定後にあらためて勝山市を訪ねた。平泉寺内にある120戸の集落は、その後さらに人口減少が続き、空き家も少なからず目立つようになっていた。そんな中、南谷発掘現場にも近い空き古民家のひとつが、2021年4月、「ふるさと茶屋」としてオープンした。明治期の木造平屋の空き家であった旧青木家である。地元には、地域住民でつくる会社「六千坊」があり、彼らが県と市の補助を受けて2年前から改修を行ってきた建物である。
 観光客の受け入れに戸惑っていた地元住民の中にも、こうした観光客との静かなふれあいの場を求める機運が芽生えてきたのは誠に喜ばしい。今は珈琲とお菓子程度の接待だが、こうした住民主体の動きには、今後とも注目したい。

旧青木邸の古民家を活用した「ふるさと茶屋」

地域の暮らしに根ざした観光という意味では、勝山にはもう一つ大きな課題がある。平泉寺から続くなだらかな丘陵地を下り、九頭竜川に面した段丘上には、かつての勝山城の城下が広がっている。ここが現在の勝山市の中心街となっている。「勝山」の地名自体が、平泉寺との戦いに勝利した一向一揆勢が村岡山を「勝ち山」と呼んだことが起源と言われる。その後、領主交替が続くが、元禄4(1691)年に入部した小笠原氏の時代に、勝山の市街地の骨格がほぼ形成された。七里壁と呼ばれる河岸段丘の上に城郭と家中と呼ばれる武家屋敷が設けられ、段丘の下に、寺社や町家が建設された。

九頭竜川の河岸段丘に設けられた七里壁

七里壁の際には、清水が流れ出し、この水が豊かな暮らしを支えてきた。町家の界隈は商売が盛んになり、左義長や年の市などの年中行事も今に続いている。特に近代以降は繊維産業が基幹産業となり、いまでも当時からの機業場も残っている。

繊維産業最盛期の記念館「ゆめおーれ勝山」

観光の交流には、こうした地元の人々とのふれあいと賑わいの場づくりが不可欠である。多くの人々が暮らす勝山市街地の活性化は、白山平泉寺を核とした交流地域づくりにおいても不可欠な課題である。

ライター
丁野 朗

ちょうの あきら

観光未来プランナー、公益社団法人日本観光振興協会総合調査研究所顧問、元東洋大学大学院国際観光学部客員教授、文化庁日本遺産審査評価委員

 

マーケティング・環境政策のシンクタンクを経て、1989年(財)余暇開発センター移籍。「ハッピーマンデー制度」や「いい夫婦の日」の提唱、産業観光などの地域活性化事業に携わる。2002年(財)日本生産性本部、2008年(公社)日本観光振興協会常務理事総合研究所長を経て、2017年よりANA総合研究所シニアアドバイザー、2020年より日本観光振興協会総合調査研究所顧問に就任。 観光庁、経済産業省、スポーツ庁、文化庁などの関係省庁委員や栗原市、呉市(顧問)、横須賀市、小田原市、舞鶴市、越谷市、益田市など各地の観光アドバイザーなどを務める。他に日本商工会議所観光専門委員会学識委員、全国産業観光推進協議会副会長、全国近代化遺産活用連絡協議会顧問なども務める。