特別寄稿 丁野 朗 氏

日本遺産「本邦国策を北海道に観よ!~北の産業革命「炭鉄港」~(北海道)

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北海道の近代化を支えた「炭鉄港」の物語は、薩摩藩の開拓者精神から始まり、石炭、鉄道、鉄鋼、港湾が織りなす壮大なドラマです。繁栄と衰退、そして再生への道を辿った歴史は、日本の未来への教訓を秘めています。 文化観光の分野で日本遺産の設立や日本文化の継承と発展に長年携わり、公益社団法人日本観光振興協会総合調査研究所の顧問でもある丁野 朗(ちょうの あきら)氏による連載寄稿・第12弾。

<薩摩から始まった北の物語>

 年の瀬も近い2024年末、北海道岩見沢を訪ねた。今年5年目となる日本遺産「本邦国策を北海道に観よ~北の産業革命「炭鉄港」のシンポジウムにお招き頂いた。会場には、空知エリアの各市町はもとより、遠く小樽、室蘭などからも関係者が多数集まった。シンポジウムでは、この5年間の活動の総括とともに、新たな活動の戦略や事業などが熱心に討議された。

日本遺産5周年記念フォーラム(岩見沢)

 この物語の発端は、遠く離れた薩摩(鹿児島)にある。薩摩藩第28代島津斉彬公は、1851年に藩主に就任するや、「集成館事業」に着手する。反射炉から鉄をつくり、西洋列強に負けない近代造船を確立する近代的西洋式工場群のことである。1840年のアヘン戦争を契機とする西欧列強のアジア植民地化の危機への対応である。
 集成館事業は、後に近代日本の工業化に大きな影響を及ぼし、「明治日本の産業革命遺産~製鉄・製鋼・造船・石炭産業~」の世界遺産(2015年7月登録)物語に繋がっていく。こちらは全国8県11市に跨る広大なストーリーだが、炭鉄港物語には、集成館で学んだ薩摩藩士たちによる北海道開拓の歴史は正面からは扱われていない。
 北海道では、明治維新の翌年に開拓使が置かれ、初代長官に薩摩藩士の黒田清隆が着任した。10年後には幌内炭鉱が開坑、石炭は日本で3番目に敷設された幌内鉄道によって小樽港に運ばれた。
 幌内鉄道はやがて北炭(北海道炭礦汽船)に払い下げられ、室蘭にも鉄道が敷設される。室蘭では1909年に輪西製鉄所(現日本製鉄北日本製鉄所室蘭地区の前身)の溶鉱炉が稼働、鉄の町室蘭の礎となった。
 やがて三井など財閥各社が進出、新たな大規模炭鉱開発も進められた。その後は戦時体制による増産と、戦後のエネルギー革命による合理化と衰退というドラスチックな変化を辿る。
 北海道は明治から昭和の高度成長期までの100年間に人口が100倍にもなる急成長を遂げた。この軌跡を描いたのが、空知の「炭鉱」、室蘭の「鉄鋼」、小樽の「港湾」、それらを繋ぐ「鉄道」を舞台に繰り広げられた歴史、炭・鉄・港の「北の産業革命」の物語である。  事業を当初からリードしてきた友人の故吉岡宏高さん(炭鉱の記憶事業団元理事長)は、この物語の究極のモチーフを「すでに起きた未来」と語っていた。北海道の急速な発展と1960年代以降の凋落は、日本がこれから経験するであろう歴史を先取りする物語でもあるという意味である。

<明治日本の産業革命と「炭鉄港」>

 それにしても、「本邦国策を北海道に観よ!」とは誠に壮大なタイトルである。その副題である北の産業革命「炭鉄港」とは、北海道近代化の骨格となった石炭、鉄道と鉄鋼、港の略である。
 その物語をもう少し詳しくみておこう。
 この物語に登場する幕末薩摩の島津斉彬公(薩摩藩11代藩主1809年~1858年)が始動した「集成館事業」は、この物語の伏線である。斉彬は、欧米列強による植民地化の危機をいち早く直感し、これら植民地化の危機に対処するためには、軍艦が必要であり、そのための鉄と帆布、ガラスなどの工業用材料が不可欠であると悟った。このため、反射炉(燃料の炎をアーチ状の天井に反射させ、その熱で鉄を溶かす)や溶鉱炉、大砲をくり抜く鑽開台(さんかいだい)、ガラスや紡績所などを設置する「集成館事業」を開始した。集成館には当時2000人に及ぶ職工が集められたというが、まだ近代明治に10年も先立つ、まさに「幕末のコンビナート」であった。

尚古集成館反射炉跡(鹿児島)

 斉彬は、ロシアによる北方の脅威にも危機感を抱き、北の守りの要でもある北海道開拓構想を示して、家老らに北海道調査を命じた。
 その北海道開拓では、集成館事業でいち早く「近代」を体得した薩摩藩士が大きな役割を担うことになる。
 そのストーリーは、①薩摩藩主導の産業革命と北海道との係わりとなる「近世末の産業革命黎明期」、②北海道開拓使から「炭鉄港の基盤形成期」、③国内資源の重要供給地としての北海道の「産業基盤形成期」として展開されている。
 このストーリーで重要なのは、薩摩藩士・黒田清隆が開拓使次官となり、1873年(明治6年)、創生川東側に工業局器械所を皮切りに、蒸気器械所・水車器械所、鍛冶場や麦酒醸造所・紡績所・製陶所などを建設したことである。北海道開拓の礎は、まさに薩摩の集成館事業がモデルとなったといっても過言ではない。この北海道開拓にとって、重要な役割を果たした屯田兵制度は、半農半士による行政と防衛を担う薩摩の「外城制度」(近世薩摩藩の地方行政と軍防を一体化した支配の仕組み)がベースともいわれる。
 こうした薩摩藩による集成館事業は、2015年に世界遺産登録された「明治日本の産業革命遺産」において、まさに日本近代化の黎明期を象徴する物語となった。「北の産業革命」は、こうした薩摩にゆかりのある物語である。

<炭鉄港と北海道の近代化そして衰退へ>

空知の石炭は、1879年(明治12年)の幌内炭鉱(三笠市)の開鉱が起点となる。ライマン(注1)の調査により、北海道には膨大な量の石炭が埋蔵していることが判明。以後、空知管内を中心に石炭の発掘が進む。その石炭は1882年開通の幌内鉄道(幌内~小樽間)で拡大した。幌内鉄道は、日本で3番目に開通した鉄道だが、当時日本最長を誇り、技師クロフォード(注2)らによって僅か3年間で開通した。

旧手宮機関庫(小樽)

 同時に労働力確保のために2つの集治監(監獄)が設置され、北海道開拓は一気に加速した。
 その石炭の積出港となった小樽は、もともと北前船交易で栄えていたが、石炭積出港としてさらに大きな役割を担うことになる。港湾の整備により、空知炭鉱(歌志内)・夕張炭鉱(夕張)などが相次いで開発され、その取扱量もますます増えていた。

旧住友奔別炭鉱(三笠市)

 また室蘭も1872年の海関所(室蘭港)の開設以来、石炭積出港として重要な役割を担う。後の1909年(明治42年)には北海道炭鉱汽船輪西製鉄所(前述)が開かれ、鉄の町としての基盤が形成される。
 

日本製鋼所旧火力発電所(室蘭)(日本遺産ポータルサイトより引用)

 第一次世界大戦は、空知の炭鉱にも大きな影響を与えた。増産とともに、採掘現場は次第に深くなり、これらを支える電化や機械化が急速に進んだ。立坑が次々と掘削され、また新たな炭鉱が開発される中で、技術革新も大幅に進んだ。

 こうした背景から、小樽では石炭をはじめ、北海道産品の輸出港として取扱貨物量が急増した。少し先になるが、1913年(大正2年)には、今日の小樽のシンボル、小樽運河も築かれた。運河は、内陸に堀込む形ではなく、海岸の沖合を埋め立てて造られたため、直線ではなく緩やかに湾曲していることが大きな特色である。
 

小樽運河(小樽)

 他方、室蘭の製鉄は、当初、必ずしも順調ではなかったが、1934年(昭和9年)の日本製鉄への合併を機に、さらに近代化が進み、大増産体制が確立された。
 しかし、第二世界大戦を機に、戦後のエネルギー革命は、まずは空知の石炭産業に壊滅的な打撃を与えた。空知では、「スクラップアンドビルド政策」に沿った大規模投資により、操業の効率化、生産コストの削減による生き残りへの努力が続けられた。
 だが、1969年から始まる第4次石炭政策のもとで、ついに石炭産業は終焉を迎えることになる。この結果、5万人を超える労働者は次々と空知を去ることになった。夕張など空知地域の衰退は、この頃が転換点となった。
 また室蘭も、戦後復興の傾斜生産の中で、一時、活況を呈したものの、苫小牧港に物流拠点が移り、また内地の臨海部に新鋭製鉄所が次々と出現する中で、次第にその地位を失っていった。
 小樽は、戦後になると輸入原材料の調達に不利な日本海側にあったことから、太平洋側にある苫小牧港などとの競争に敗れ、商業・金融機能も次々と札幌に移転していった。こうした中で、戦後のトラック輸送の増大から、大正時代に設けられた小樽運河の役割も失われてしまう。こうして無用となった運河は放置され、ごみが投げ込まれるなど運河は邪魔者となった。そんな時に浮上したのが運河を埋め立て6車線の道道小樽臨港線を通す都市計画決定である。1966年(昭和41年)、まさに高度成長期である。
 しかし、これには多くの小樽市民が反対した。昭和48年に発足した「小樽運河を守る会」を中心に反対運動が激化、以来、10年にわたり市を二分する運河埋立反対闘争が勃発する。結局、運河は南側の半分を埋立てる折衷案として決着した。その後は、条例による徹底した景観整備と新たな景観創出の取り組みが始まった、これが、今日の美しい運河景観に繋がっている。本年2月、新たに日本遺産に認定された「北海道の『心臓』と呼ばれたまち・小樽」は、この運河論争と小樽の再生がテーマの物語である。

昔のまま40m幅で残る小樽北運河(小樽)

<「すでに起きた未来」を知る「知の旅」>

  炭鉄港日本遺産ストーリーの最後の結びは、先にみたように、故吉岡宏高氏の「すでに起きた未来」で括られる。
 1960年代の小樽運河論争を経た小樽は、その後、地域の歴史の中から新たな価値を見出すまちづくりが始まった。歴史遺産を生かした「歴史とロマンの街小樽」として、年間800万人が訪れる日本有数の観光地として再生した。近年は、運河沿いの旧三井銀行などの建物を活かした小樽芸術村など、文化観光推進法による拠点計画や、幅40mの昔ながらの風情が残る北運河、その中心でもある北海製罐小樽工場第3倉庫の再生構想など、文化資源を活かした新たなまちづくりが始まっている。
 また、美唄市の炭鉱地帯にあった旧栄小学校が安田侃彫刻美術館(アルテピアッツァ美唄)として活用されたり、1912(明治45)年建設で道内最古の木造建築駅舎、室蘭市旧室蘭駅舎がホールや展示スペースなどのある観光案内所として活用されるなど、空知や室蘭でも、地域の歴史や産業遺産を生かしたまちづくりが進んでいる。  こうした産業遺構だけでなく、当時の暮らし文化や食なども今に生きる私たちに伝えられている。炭鉱労働者のまち歌志内や三笠市には、秋田県の鉱山から移住した人々が北海道の炭鉱に伝えた馬の腸の料理「なんこ」や昭和初期の食糧難時代に勧められた養豚から屋台で食べられていた豚肉やモツ(内臓)を用いた「室蘭やきとり」など、独特の食文化が生まれ、今も地元の方々に愛されている。

室蘭やきとり(炭鉄港推進協議会 炭鉄港めしより)

  成長と衰退、そして新たなまちづくりへという、炭鉄港物語が描いたドラマチックな変化は、日本が直面する、これからの急激な人口減少や少子高齢化を先取りしてきた北海道の物語が私たちに伝えるメッセージでもある。
 北海道の次の百年に私たちは何を築けるのか。広大な大地は、いま日本の食糧基地や最後に残された緑の大地、国際的な観光地域などとして無限の可能性を秘めている。この物語を次代に引き継ぐための新たな構想と事業が求められている。
 私事ながら、炭鉄港日本遺産物語を描き、自らリードしてきた盟友、吉岡宏高氏は3年前の11月に逝去された(当時59歳)。岩見沢に拠点を置く「炭鉱(やま)の記憶事業団」理事長、夕張の石炭記念館館長として、この炭鉄港物語の活用に熱い情熱を注いできた。

そらち炭鉱の記憶事業団の事務所(岩見沢)

 炭鉱の町三笠市生まれで、北海道炭礦の事務員をしていた両親のもとに育ち、自らも日本甜菜糖や北海道拓殖銀行のシンクタンク「たくぎん総合研究所」などで活躍した。
鹿児島の島津家ゆかりの島津興業の顧問もつとめ、よく鹿児島と北海道を往復していた。「すでに起きた未来」は彼の口癖でもあった。日本遺産を活かした新たな歴史づくりに情熱を傾けていた彼は、夢の途中で倒れたが、この物語を引き継ぎ、次の北海道の100年物語づくりに情熱を燃やす方々に次を託したい。

<注釈>
(注1)ベンジャミン・スミス・ライマン(Benjamin Smith Lyman(1835年12月11日~1920年8月30日)は、米国出身の鉱山学者で、お雇い外国人として日本に招かれた一人。日本名は来曼。ハーバード大学卒業後、アメリカ鉄鉱協会の会長だった叔父の助手となり、鉱山調査に関わる。1859年にバリの鉱山学校、1861年にドイツフライベルク鉱山学校に留学し、鉱山学を学んだ。

(注2)ジョセフ・ユーリー・クロフォード(Joseph Ury Crawford、1842年~1924年11月21日)はお雇い外国人として来日した米国の鉄道技術者。ペンシルベニア生まれで、南北戦争の終戦後、鉄道会社に勤め、明治11年(1878年)に北海道開拓使として来日、開拓使顧問を務めた。明治14年に任期満了となり、帰国するまで幌内鉄道の手宮~札幌間の鉄道敷設工事を指導した。このほかにも高崎~東京~青森間の鉄道敷設工事も指導した。

ライター
丁野 朗

ちょうの あきら

観光未来プランナー、公益社団法人日本観光振興協会総合調査研究所顧問、元東洋大学大学院国際観光学部客員教授、文化庁日本遺産審査評価委員

 

マーケティング・環境政策のシンクタンクを経て、1989年(財)余暇開発センター移籍。「ハッピーマンデー制度」や「いい夫婦の日」の提唱、産業観光などの地域活性化事業に携わる。2002年(財)日本生産性本部、2008年(公社)日本観光振興協会常務理事総合研究所長を経て、2017年よりANA総合研究所シニアアドバイザー、2020年より日本観光振興協会総合調査研究所顧問に就任。 観光庁、経済産業省、スポーツ庁、文化庁などの関係省庁委員や栗原市、呉市(顧問)、横須賀市、小田原市、舞鶴市、越谷市、益田市など各地の観光アドバイザーなどを務める。他に日本商工会議所観光専門委員会学識委員、全国産業観光推進協議会副会長、全国近代化遺産活用連絡協議会顧問なども務める。