特別寄稿 丁野 朗 氏

一輪の綿花から始まる文化観光都市づくり 岡山県倉敷市

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岡山県倉敷市。「桃太郎伝説」でも有名なこの地域は実に様々な顔を持っている。 3つの日本遺産、繊維の街、「SDGs未来都市」。 はたしてこの倉敷市というのはどのように歴史を重ね、産業を興し、文化を形成してきたのか。 またどのような未来を見据えているのか。考察したい。 文化観光の分野で日本遺産の設立や日本文化の継承と発展に長年携わり、公益社団法人日本観光振興協会総合研究所の顧問でもある丁野 朗(ちょうの あきら)氏による連載寄稿・第10弾。

一輪の綿花から

白壁の街並みが美しい倉敷市中心部美観地区。中国地方を代表する観光のスポットである。江戸時代には、幕府直轄地(天領)として倉敷代官所が置かれ、倉敷川の水運を利用した川港・商家町として発展した。

この倉敷の街の成り立ちが、「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」というタイトルの日本遺産物語として、2017年に日本遺産に認定された。

倉敷市のある岡山県南部一帯は、わずか400年前までは一面の海であった。かつて「吉備の穴海」と呼ばれ、大小の島々が点在する海が広がっていた。その浅海は、高梁川の沖積作用で徐々に浅くなり、近世以降の干拓工事によって少しずつ陸地に姿を変えていった。

しかし干拓地は塩分が多く、直ちには米作りができない。そこで塩分に強い綿やイ草が栽培された。これが後に日本一の繊維産業の拠点となる倉敷の原点である。この地に根付いた綿栽培が当地の最初の一歩であった。まさに「一輪の綿花」からである。

因みに、これら綿栽培の肥料となったのが、北海道の江差や小樽などから北前船で運ばれてきたニシン糟であり、江差では、そのニシン漁で栄えた漁村集落のまちなみが「五月の江差は江戸にもない」と謳われた日本遺産物語になっている。

現在では、この倉敷の干拓地は近世以来の水門に加えて、高梁川の河川改修工事で建設された国内最大級の水門(高梁川東西用水取排水施設など)によって豊富な水が供給され、倉敷市は豊かな穀倉地帯に生まれ変わっている。

ただ、記憶に新しい2018年の西日本豪雨では、倉敷市真備町を流れる高梁川の水位が上昇し、高梁川に合流する小田川でも水位が上昇。増水した支流の水は本流に流れにくくなり、いわゆる「バックウォーター」と呼ばれる現象で大水害に見舞われた。この地域は、今でも水との戦いが続いていることには変わりはない。

紡績業を基盤とした産業都市の形成

 「倉敷」の名は、中世以来、支配地の年貢米や貢納物を集めておく場所、「倉敷地」に由来すると言われる。倉敷は寛永19(1642)には幕府直轄地(天領)となり、以来、周辺の直轄領を支配する政治の中心地になるとともに、備中南部の物資の集散地として栄えた。

地域の大動脈高梁川児島湾を結び、船荷などを運ぶために運河として倉敷川が開削された。その周辺には、綿などを扱う問屋や仲買人たちで賑わい、その商いで成功した商人たちは豪壮な屋敷を建てた。現在も倉敷川沿いには川港の繁栄を物語る当時の荷揚げ場や路地の石畳、常夜灯などが残り、白壁の商家の建物が軒を連ねている。

明治以降の倉敷では、民間紡績業が数多く台頭する。下村紡績(児島)、玉島紡績(玉島)の開業に続き、明治22年(1889)には英国式最新機械を備えた有限責任倉敷紡績所(のちの倉敷紡績・クラボウ)が設立された。これら紡績により町を牽引した人々は洒落た洋風建築を数多く建てた。これらの街並みが、現在の「美観地区」として観光の中核になっている。

 

倉敷市美観地区
風情ある美観地区の夜景

倉敷紡績所では、地元の大地主・大原孝四郎が初代社長に就任する。幸四郎は、資金調達を円滑にするため倉敷銀行(現在の中国銀行の前身の一つ)を設立し、自ら頭取に就任して金融面からも盤石な体制を確立した。

産業財を基盤とした文化都市づくり

明治39年(1906年)、倉敷紡績所の2代目社長には、幸四郎の三男大原孫三郎が就任する。孫三郎は、倉敷毛織(現クラボウ)、倉敷絹織(現クラレ)、中国合同銀行、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を務め、大原財閥の基礎を築き上げた。

孫三郎は、こうした本業の紡績業とともに、社会・福祉事業にも力を注ぎ、事業で得た富で、さまざまな文化・社会・福祉事業を手掛けた。

工員が初等教育すら受けていないことを嘆き、職工教育部や尋常小学校などを設立した。大原美術館の礎となるコレクションを集めた洋画家・児島虎次郎もこうした奨学生の一人であった。

 工員の労働環境改善にも熱心で、社宅には医師や託児所も備え、社員勧誘用の映画まで作った。日露戦争などで増えた孤児のための孤児院への支援や、倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)や看護婦の養成学校などを設立し、工員だけでなく市民の診療も行った。これらの支援金額は巨額に上ったが、反対する重役たちに「わしの眼は十年先が見える」と言って押し切ったという有名なエピソードもある。

倉敷中央看護専門学校

こうして倉敷は世界に誇る「日本一の繊維のまち」に成長した。その発展の中で形作られた伝統的な商家群や明治以降の洋館建築などが、今日の素晴らしい街並みとして残っているのが倉敷の大きな魅力である。

 その中核にあるのが大原美術館である。美術館は、大原孫三郎が、自身がパトロンとして援助していた児島虎次郎に託して収集した西洋美術のほか、古代エジプト・中近東・中国美術などの作品を展示するため昭和5年に開館した。西洋美術や近代美術を展示する美術館としては日本初の美術館である。理事長の大原あかねさんは、大原孫三郎氏の孫にあたる。

大原美術館

大原美術館の周りには、旧倉敷紡績所発祥工場の跡地に建てられたホテル・文化施設の複合施設、倉敷アイビースクエアなども集積している。大原美術館は、まさに倉敷美観地区の中心にあって、文化都市の拠点という位置づけである。

アイビースクエアと中庭
旧倉敷紡績本社工場の一部

2020年には、文化庁文化観光推進法の拠点計画(大原美術館を中核とした倉敷美観地区の文化・観光推進拠点計画)も認定された。重要伝統建築物群保存地区を中核とした、文字通りの文化観光都市づくりである。

倉敷市の3つの日本遺産物語とその編集

 倉敷市には、「一輪の綿花」の日本遺産ストーリーの他に、2つの日本遺産物語がある。その一つは、荒波を乗り越えた男たちが紡いだ異空間~北前船・船主集落~(2017年認定)である。すでに紹介した玉島・下津井地区が舞台である。ここには北海道や東北地方から様々な商品が持ち込まれた。特に肥料として綿栽培に欠かせない干鰯やニシン粕などが北前船によってもたらされ、帰り荷として、綿・菜種・塩などの商品が喜ばれ、その交易から町が大きく発展した。
 

港町の風情が残る下津井の街並み
ジーンズショップが集積する児島

もう一つが、「桃太郎伝説」の生まれたまちおかやま~古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語~(2018年認定)である。倉敷市の北部の庄・真備地区は、吉備国の一角として多くの遺跡が残っている。古代吉備は、温暖な気候と瀬戸内海の流通、豊かな平野に恵まれ、大和や出雲に匹敵する強大な勢力を誇り、「桃太郎の伝説」にも登場する楯築遺跡や鯉喰神社、箭田大塚古墳など多くの遺跡が残されている。

 一つの市域で3つの日本遺産をもつ地域は、山形県鶴岡市や広島県尾道市などいくつかあるが、これらのマネージメントはなかなかに難しい。

 倉敷市では、最初の日本遺産「一輪の綿花」が認定された2017年、伊藤香織市長の指揮のもとで、部内に日本遺産推進の専門部署、日本遺産推進室を設置した。日本遺産ストーリーに直接かかわる文化財など文化戦略部門とともに、観光、商工、都市計画などの部門から職員を集め、日本遺産を活用した観光まちづくり戦略を総合的に担える専門部署である。発足当初は7人の職員が任命され、彼らは「神セブン」(現在は8人)として任務にあたっている。

 これら3つの日本遺産地域の事業連携はもとより、高梁川流域の高梁市(「ジャパンレッド」発祥の地)や備前市(旧閑谷学校などの近世日本の教育遺産群やきっと恋する六古窯のひとつ備前焼など)などとの交流活動も盛んである。高梁川流域の「かわのわ」マーケットは、倉敷美観地区などに流域7市3町が集まるイベントだが、こうした地域事業連携の活動も各地域の活動に大きな弾みとなる。

美観地区で行われた日本遺産マーケット

 文化観光都市づくりは、狭く文化財や観光部署だけでは担えない大きな課題である。都市の未来や地域経済をどのように発展させていくのかという都市ビジョンが不可欠である。こうした倉敷の都市づくりには、先ごろ5選を果たした伊藤香織市長や大原美術館の大原あかね理事長らの強い意欲が背景にある。

倉敷市の今とこれから

現在の倉敷市は、戦後、昭和42年(1967年)に旧倉敷市・児島市・玉島市が新設合併して実現した。合併後も周辺町村の編入合併が繰り返され、市域はどんどん拡大してきた。その意味では、旧倉敷市と周辺地域は、歴史・文化も異なる、誠に多様な地域になった。

旧倉敷市は行政の核であるとともに観光業が盛んだが、児島地域は、古くから海運業や製塩業、繊維業が栄え、現在も学生服・ユニフォーム・ジーンズなどの繊維(アパレル)産業が盛んである。特に、日本産ジーンズ発祥の地としても知られている。

また、旧児島郡の下津井は、瀬戸内海に面する港町で、江戸時代には北前船による綿花、ニシン粕の中継取引港として栄えた。また海を隔てた讃岐金毘羅参りをする人々の宿場としても大いに繁栄した。玉島地区も江戸時代から物資の集散地として栄えた玉島港の港町であり、備中松山藩(備中高梁)や岡山藩などの外港としての機能を備えていた。その周囲は水島工業地帯の一部をなり、事業所や工場が多数立地している。

このような多様な顔を持つ倉敷市は、岡山県の中では岡山市に次ぐ人口47万人を擁する中核市であり、製造品出荷額約4兆円は、京阪神を除く西日本最大で、大阪市などと並ぶ工業都市でもある。

倉敷市は、20207月に「SDGs未来都市」に選定された。これは、倉敷市をはじめとした「高梁川流域圏」が深く結びつき、自然と共存する持続可能な流域暮らしを創造する未来のまちづくりのビジョンが評価されたものである。また、昨年9月には、G7サミットの労働雇用大臣会合も開催された。

 歴史・文化をレガシーに、地域の新たな未来を拓く。倉敷は、そんなスピリットに富んだ地域として、これからも大きな発展を遂げていって欲しい。

ライター
丁野 朗

ちょうの あきら

観光未来プランナー、公益社団法人日本観光振興協会総合研究所顧問、元東洋大学大学院国際観光学部客員教授、文化庁日本遺産審査評価委員

 

マーケティング・環境政策のシンクタンクを経て、1989年(財)余暇開発センター移籍。「ハッピーマンデー制度」や「いい夫婦の日」の提唱、産業観光などの地域活性化事業に携わる。2002年(財)日本生産性本部、2008年(公社)日本観光振興協会常務理事総合研究所長を経て、2017年よりANA総合研究所シニアアドバイザー、2020年より日本観光振興協会総合研究所顧問に就任。 観光庁、経済産業省、スポーツ庁、文化庁などの関係省庁委員や栗原市、呉市(顧問)、横須賀市、小田原市、舞鶴市、越谷市、益田市など各地の観光アドバイザーなどを務める。他に日本商工会議所観光専門委員会学識委員、全国産業観光推進協議会副会長、全国近代化遺産活用連絡協議会顧問なども務める。

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