特別寄稿 丁野 朗 氏【前編】

日本遺産物語とその視点

公益社団法人日本観光振興協会総合研究所・顧問 丁野 朗氏による特別寄稿

古代山城

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どんな地域にも独自の歴史、文化があり、それに関連した産業が発展をしてきました。それら地域の物語、即ち“ストーリー”を文化庁が認定した「日本遺産」をご存じでしょうか?「日本遺産(Japan Heritage)」は、2022年12月末時点で全国104の地域ストーリーが認定されています。 自分の育った地域の「光」を改めて認識し、自分たちの誇りとして次世代へ伝え、その場所に住む人だけでなく国内外問わず訪れる旅行者にも語ってほしい。そんな思いから生まれたのが、“地域ストーリー”としての「日本遺産」です。 文化観光の分野で日本遺産の設立や日本文化の継承と発展に長年携わり、公益社団法人日本観光振興協会総合研究所の顧問でもある丁野 朗(ちょうの あきら)氏による特別寄稿から、「日本遺産」の地域ストーリーの魅力とその可能性について考えてみましょう。前編・後編の全2回にわたってお届けします。

何故いま地域ストーリーか

人が旅に出ようと思うのはどのような時か。また、どんな処に行きたいと思うのか。これは観光マーケティングの基本課題だが、実際には人々は実に多様な旅動機にもとづく行動をするので、それほど簡単ではない。

旅は典型的な「経験消費」である。だから素晴らしい旅経験をさせてくれそうな地域が選ばれるのだろう。「そうだ京都に行こう!」という広告は、そんな旅動機を刺激してくれる。だから、動機づけを得られない地域はパスされる。だから、地域を魅力的にプロモーションする必要がある。

少し大胆な仮説だが、その選択条件の一つが、自分を満足させてくれる、何かワクワクする「物語」の存在であろう。旅先で何かに共感し、感情移入ができる、そんな物語を持っているかどうかが地域選びの決め手になる。この感情移入できるモノ・サービスが、つまりは「ブランド」となる。自分の好みや、生き方(ライフスタイル)にフィットするようなブランドが、その地域にあるかないかということである。

そうだ京都行こう(建仁寺・潮音庭/東海旅客鉄道ポスター)

こうした旅人の経験消費を促すのが「物語」の力である。その物語に描かれた場面を追経験できて、さらには、その期待を裏切らない地域が、いわゆる「ブランド観光地」ということになろう。多くの地域は、こうしたブランド力を維持するために、次々と新しい経験消費の場づくりに勤しんでいる。京都は、年間5千万人以上の観光客を惹きつけるブランド観光地だが、その水面下で、顧客を飽きさせない、さまざまな工夫されていることは意外と知られていない。

「物語」が観光客を惹きつけるという典型的な事例のひとつが、倉本聰さん脚本のドラマ『北の国から』である。連続ドラマとして1981年10月から翌年3月まで放送された後、8編のドラマスペシャルが1983年から2000年まで放送された。北海道富良野を舞台に、雄大な自然の中で田中邦衛さん演じる黒板五郎と2人の子どもたちの成長を21年間にわたって描いたドラマである。回を重ねるごとに視聴者は自分事として感情移入し、ドラマスペシャルでは視聴率は常時20%を超える人気作品であった。

北の国から(ポスター)

 富良野はもともと自然豊かな素晴らしい地域であった。だが、自然が豊かで美しいだけでは観光客は来ない。このドラマの成功は、数多くの視聴者が、主役たちが暮らした地域を追体験しようと、富良野を次々と訪ねたことである。最終作『2002年遺言』が放映された年には、富良野には約250万人もの観光客が訪れた。つまりドラマ(物語)が、多くの人々の共感を呼び起こし、これが観光に繋がったという事例である。人を魅了する物語が、観光行動の大きな動機となったのである。

地域ストーリーとしての日本遺産

こうした地域の物語づくりを地域の歴史・文化財を活用して行おうという試みの一つが「日本遺産」である。もとより、文化財には、旧石器時代から近現代に至る長い時間軸の中で形成された有形・無形、重要文化的景観、重要伝統的建造物群保存地区、選定保存技術などなど、実に多種多様なものがある。私たちが知っている文化財は、その中のほんの一部のものに限られているのではないだろうか。しかも、これら文化財は、地域にバラバラに存在し、その一つ一つを知っていても、これら異質のものが、何故この地域で生まれたのか、その深い意味まで理解するのはとても困難である。

これらを一つのテーマ・視点から束ね、こうした文化財を生み出した地域の物語として編集したのが「日本遺産」である。文化庁の青柳正規前長官は、日本遺産が重視するのは「グループ化と物語性」と指摘される※1。グループ化とは、時代もジャンルも異なる地域の多様な文化財を、その背後にある共通のテーマに沿って物語として束ねるという意味である。「物語性」は言うまでもなく、多くの方々に地域の多様な文化財の背後に流れる魅力的な物語としてとりまとめ、関心を高めてもらおうという、いわば地域ブランド戦略である。

※1)青柳正規著「文化立国論」ちくま書房、2015年10月。P134

そんな日本遺産物語の一例として、熊本県北部の菊池川流域の「米作り、二千年にわたる大地の記憶~菊池川流域今昔『水稲物語』」~」(山鹿市、玉名市、菊池市、和水町の3市1町、2017年認定)を紹介したい。菊池川流域は、一説には卑弥呼の拠点説もあるほどの古墳群の集積地だが、その豊かな財を支えたのが米作りであった。この地域の米作りは、水を引きやすい川沿いの平坦な土地ではじまり、鉄製農具を利用して生産性を高め豊かな土地となっていった。こうした豊かさが、豪華な副葬品が出土した「江田船山古墳」や絵画などの装飾が施された「チブサン古墳」など、多彩で豊かな古墳群の誕生につながった。

チブサン古墳(筆者撮影)
古代山城

古代から受け継がれた条里制の平野とともに、山間の高地では井手(用水路)と棚田の開削、そして広大な海辺の干拓による新たな耕作地の開削。こうした古代から現代に至るまでの、日本の米作り文化の縮図を日本遺産物語として描くことにより、地域の人々による歴史の再認識と観光の新たな魅力づくりを進めている事例である。

延々と続く旧玉名干拓施設の板部(熊本県玉名市)

地域の人々にとっては見慣れた風景であるが、その地域に、こんな優れた歴史があり、かつ日頃縁の薄かった河川流域に、このような密接なつながりがあったということに今更ながら気づかされた。観光という観点からみても、3市1町は、それぞれに素晴らしい資源を持ちながらも、その知名度は低く、まして海外のお客さまにはノーマークの土地であった。

地域の疲弊が言われる近年だが、その背景として、私は地域が自らの歴史を見失っていることが原因ではないかと思っている。歴史を見失ってしまえば、自分の地域に誇りがもてなくなるのは必然である。「歴史を忘れた民俗は滅びる」と言ったのは、イギリスの歴史学者、アーノルド・J・トインビー※2だが、いま日本の多くの地域が、自らの歴史と誇りを失いかけている。日本遺産は、地域の人々が、自らの歴史の再認識と誇りを再生するための大きな手段の一つにもなりえるものである。

※2)アーノルド・ジョセフ・トインビー(Arnold Joseph Toynbee、1889年4月14日~1975年10月22日)。イギリスの歴史学者。日本の歴史文化にも着目し、各文明国の発展を描いた『歴史の研究』(原著1934~1961年)などを著す

有名なブランディング手法の一つに、「アウターブランディング」と「インナーブランディング」がある。消費者や顧客など「外側」にいる人達に対するブランディングをアウターブランディングという。これに対して、インナーブランディング(あるいはインターナルブランディング)とは、自らの従業員など、自社の「内側」にいる人たちに対するブランディングの展開である。その目的は、従業員等に対して、ブランドのミッション(社会的使命)やブランドビジョン(在りたい姿)などを理解してもらい、自分ごととして日々の業務を実践してもらうことである。東京ディズニーリゾートのように、接客スタッフ1人ひとりの接客態度や接客品質がブランドの評価に直結していく。これは、日本遺産物語をもつ地域の住人が、自らの地域を認識し、誇りとともに、ビジョンやその使命を再認識することに通じる考え方である。

 

参考

日本遺産(Japan Heritage)について

「日本遺産(Japan Heritage)」は地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけではなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。

ライター
丁野 朗

ちょうの あきら
公益社団法人日本観光振興協会総合研究所顧問、元東洋大学大学院国際観光学部客員教授、文化庁日本遺産審査評価委員
 

マーケティング・環境政策のシンクタンクを経て、1989年(財)余暇開発センター移籍。「ハッピーマンデー制度」や「いい夫婦の日」の提唱、産業観光などの地域活性化事業に携わる。2002年(財)日本生産性本部、2008年(公社)日本観光振興協会常務理事総合研究所長を経て、2017年よりANA総合研究所シニアアドバイザー、2020年より日本観光振興協会総合研究所顧問に就任。

観光庁、経済産業省、スポーツ庁、文化庁などの関係省庁委員や栗原市、呉市(顧問)、横須賀市、小田原市、舞鶴市、越谷市、益田市など各地の観光アドバイザーなどを務める。他に日本商工会議所観光専門委員会学識委員、全国産業観光推進協議会副会長、全国近代化遺産活用連絡協議会顧問なども務める。

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