特別寄稿 丁野 朗 氏

石の文化の物語

公益社団法人日本観光振興協会総合研究所・顧問 丁野 朗氏による特別寄稿

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地域にはさまざまな物語がある。それぞれの地域を特徴づける歴史文化の物語を認定し、これらを地域活性化の起爆剤にしようというのが2015年にスタートした日本遺産である。地域の物語はもちろん一つではない。だから、一つの地域で複数の日本遺産物語を書いて認定された地域も少なくない。日本遺産物語は、地域を特徴づける「編集視点」であり、観光にとって不可欠な地域ブランディングの手法である。 今回は、こうした編集の視点として、地域固有の資源である「石」とその文化から物語を描いた複数の地域について紹介しよう。

珠玉の石の物語(石川県小松市)

最初に紹介するのは、「珠玉」(玉や宝石)を軸に物語を書いた石川県小松市の事例である。

物語の発端は2300年前の八日市地方遺跡にはじまるが、その遺跡は、来春、北陸新幹線の延伸で活気づく、JR小松駅周辺に集積する。

日本では自然や生命、権力への象徴として「緑」への憧れが強かった。このため、半島から伝わった「緑の玉」の国産化を目指して、原石産地探しが始まった。良質で豊富な碧玉が採取できた小松の弥生人たちは、那谷・菩提・滝ヶ原の地域で産出される碧玉を原料に、八日市地方地域で「玉つくり」を開始する。

八日市地方遺跡の玉つくり(日本遺産ポータルサイトより)

古墳時代前期になると、ヤマトに強大な勢力が誕生し、新たに大型の装身具として石製の腕輪生産が始まった。加工しやすく、きめ細かな石質を持つ小松の緑色凝灰岩が注目を集めた。精巧な彫刻加工を施したデザイン性の高い腕輪は、当時のヤマト王権の諸王がステータスシンボルとして競って求め、日本各地へと広まっていった。

こうした古代までの切石技術は、中世に入ると鉄製の石工道具の進化と普及により、行火や囲炉裏、井戸枠、火鉢等の生活道具のほか、灯篭や石仏等の信仰具、五輪塔など、細かな細工を施す石造彫刻品の制作も活発となり、生活・信仰・文化に密着した石の利用が拡大していく。

現在も残る緑色凝灰岩の石切り場(荒谷商店)
遊泉寺銅山跡

こうした時代を超えた小松の優れた石とその加工技術、これらを駆使した産業や都市づくり、固有文化の創出といった一連の物語が、2016年に日本遺産に認定された『珠玉と歩む物語~時の流れの中で磨き上げた石の文化~』である。

物語の原点となったJR小松駅周辺の八日市地方遺跡は、のちにコマツ本社が置かれた場所である。コマツは1917年、石川県能美郡国府村(現小松市)で銅山を経営していた竹内鉱業(竹内明太郎により創業)が銅山の自家用機械生産のために開設した小松鉄工所が原点である。

2013年、八日市地方遺跡の上にある本社跡地に「ひととものづくり」をテーマとした「サイエンスヒルズこまつ」が開業した。2300年の時を超えて、同じ場所に、ものづくり(産業)の拠点が築かれたことに、何か偶然を超えた歴史の必然のようなものを感じる。

サイエンスヒルズ小松

小松市ではいま文化庁の「文化財保存活用地域計画」の策定に着手している。これは、文化財の保存・活用に関する基本的なアクションプランであり、地域が目指す将来ビジョンや具体的な事業等の実施計画である。こうした継続性・一貫性のある文化財の保存・活用の計画を広く周知し、地域の様々な団体・関係者だけではなく、住民の理解・協力を得ることによって、地域社会総がかりによる、計画的な文化財の保存・活用を図ることを狙ったものである。

計画には地域の歴史文化の概要と特徴、時代やテーマ・エリアを明確にした「関連文化財群」の設定と、これらの保存活用区域の指定などを行う。また、市町村が講ずる措置、保存・活用のための推進体制、支援団体など民間と連携した取組などについて定めることになっている。

地域の宝であり、地域活性化の大きな資源ともなる文化財の中長期的な保存・活用計画のもとに、日本遺産のような物語とその活用をうまく位置づけることができれば、地域資源の保存と活用に係る大きな力となる。

ものづくりの再生とGEMBAプロジェクト

日本遺産を活用した観光は、文化資源の活用であるとともに、地域の産業再生・経済活性化の大きな武器にもなる。小松では、昨年、全国の日本遺産地域が集う「日本遺産サミット」が開催されたが、これを契機に「GEMBAものづくりサミット」が開催された。

GEMBAの事業は、3年前の2019年から、産業観光の推進を目標とした「こまつものづくり未来塾」を設置し、プランを練ってきた。九谷焼を核とした創造拠点「CERABO KUTANI(九谷焼セラミックラボラトリー)」だけでなく、かつて小松の主力産業であった繊維や、各種の石材など、地域に根付く工場・工房のいわばオープンファクトリー(見せる(魅せる)工場・工房)を狙った。初年度のキャッチコピーは、「うちの工場、のぞいてみんけ?」であった。「わたしたちのものづくりの多くは、その先にあるはずの、使い手の顔が見えません。だからこそ、いつ誰が手にとってもいいように追求してきた技術がある。寸部違わぬ感覚をもつ、職人の目や手。百年以上のアーカイブが眠る秘密の蔵、世界最先端の表現を可能にする機械」などがある。これらを多くの方々に覗いて貰うことによって、職人たちが顧客と触れ、自信に繋げ、異業種との交流を図る中で、新たな技術や製品分野、マーケットを開拓しようという趣旨である。

こまつものづくり未来塾(EATLABにて)

工場・工房等による産業観光は、すでに20年以上の歴史をもつが、小松では新潟県燕・三条の「工場の祭典」や福井県鯖江の「RENEW」などから、その手法や考え方などを学んだ。その活動が評価され、令和3年度の日本観光振興協会第14回「産業観光まちづくり大賞」も受賞した。

2年目となる2022年は、11月3日から6日までの4日間、昨年を上回る35の事業所が参加して開催された。テーマ別にコースを設け、有料の観光プログラムも設定された。九谷焼などはもとより、工房での体験や製品は、自分だけの大切な思い出や土産になる。

これらGEMBAの取組も、日本遺産を活かした新たな産業創造という重要な活動でもある。

GEMBAプロジェクト(宮創製陶所)

 

石から読み解く物語(福井県白山平泉寺・一乗谷)

同じ「石」の文化という編集視点としては、2019年に認定された福井市と勝山市の日本遺産『石から読み解く中世・近世のまちづくり』も、「石の物語」の一つである。

この物語の発端は、室町時代後期(1450年頃)までの最盛期に、48社36堂6000の坊院をもち8,000人の僧兵を要したといわれる白山平泉寺(勝山市)である。白山信仰の拠点であり、最盛期は比叡山延暦寺を凌ぐといわれた巨大な宗教都市があった。一向一揆により全山消失するが、平成初期から始まった発掘調査では、苔むした社寺跡から中世の石畳道が次々と姿を現し、石造りの泰澄大師廟や楠木正成の墓、無数の石仏なども調査された。

石の技術のルーツとなった白山平泉寺(福井県勝山市)

この平泉寺の石組技術は、福井の石のまちづくりのルーツとなり、その50年後に整備された一乗谷朝倉氏居館にも受け継がれた。城下町の入り口には巨石を5mもの高さに積み上げた城戸(城や防備のための柵に設けた出入り口の戸。城門)が威容を誇っている。朝倉氏の居館跡や家臣の屋敷跡には石垣の区切りや礎石が数多く残されている。笏谷石製の井戸枠やバンドコ(行火)、などが往時の城下町の賑わいを伝えている。

天正元年(1573年)、織田信長と朝倉義景の戦いで一乗谷が滅びたのち、越前を拝領した柴田勝家は福井市中心部の北ノ庄に7層(9層とも)の天守や笏谷石製の瓦が葺かれた城下を築いた。徳川家康が天下を統一して以降は、結城秀康が越前に新たに城(のちの福井城)を造築した。今に残るこの城は、四重の堀に約4万個とも言われる笏谷石の石垣や天守台があり、日本一壮麗な城と言われる。

随所に用いられた笏谷石は、至近距離にある足羽山から大量に供給され、松平家の菩提寺大安禅寺の廟所「千畳敷」や福井藩主松平家別邸の「養浩館」などにも数多く用いられている。この笏谷石は、北前船の船底に入れられて全国各地に運ばれ用いられたことでも有名である。

「石から読み解く」というこの物語は、石の採掘・加工を担った職人たちの技術・技能が時代を超えて、この地域共通の都市計画の底流をなしているというストーリーである。

この日本遺産認定を活かそうと、2020年10月、笏谷石の石切場跡地を活用した「丹厳洞」(料亭)でフォーラムが開催され参加した。コロナ禍でもあり、ホールではなく、日本遺産構成資産を代表する空間で小人数を集め、その様子をライブのテレビとオンラインで配信するという新たな試みでもあった。

笏谷石の採掘跡地「丹厳洞」で開催された日本遺産フォーラム

 

悠久の石の島の物語 笠岡市北木島・丸亀市本島・小豆島

各地の石切り場は、そのスケールの大きさに驚かされる。高さ100mの石の断崖絶壁。良質の石を求め下へ下へと掘り進んでいくうちに、天空に聳えるような絶壁となった。岡山県笠岡市の沖合、北木島にある石切場もその一つである。

100m断崖絶壁の石切場(笠岡市北木島)

瀬戸内海の笠岡諸島、小豆島、塩飽諸島で構成される備讃諸島は、400年にわたって日本の代表的な名建築を支えてきた「石の島」である。小豆島は、古くは近世城郭の技術的頂点、大坂城の石垣を供給した。北木島は、日本銀行本店、横浜正金銀行、大阪市中央公会堂、三越日本橋本店など、数々の名建築を支え続けてきた。

100トンを超える巨石をどうやって運んだのか。その謎は、この海を制する海運にあった。この地域の塩飽水軍による優れた操船技術と海運力がなければ、巨石を運ぶことは不可能である。丸亀市の沖合、本島はかつて塩飽水軍の本拠地であり、江戸時代には奉行所が置かれ、塩飽廻船の根拠地となった。幕末の有名な咸臨丸の乗組員の多数が、この塩飽廻船の船乗りたちであったという。

備讃諸島の島々は、どこも街路が屈曲し、十字路のない複雑な町割りが特徴である。塩飽の中核となる本島・笠島地区の集落は狭い道路が複雑に交差し、見通しがきかない意外性が面白い。マッチョ通り(町通り)と呼ばれる中心道路に沿った町家形式の家屋の集落が、はじめて訪れる人々を魅了する。また、笠岡諸島の真鍋島は中世真鍋水軍の本拠地であり、山城を核とした防衛的な町割り集落が魅力的である。小豆島土庄集落も、「迷路のまち」と呼ばれ、地図がなければ方向感覚を失う。いずれも個性豊かな島の景観と町割りが大きな特色である。

どの島も、石切、加工、商い、出荷、海運という一連の産業を担ってきた石材産業が主産業であった。その富が、島の固有文化と娯楽を生んだのである。北木島には、石工や島民娯楽のために、学校講堂のような映画館が昭和期まであり、コミュニティーの核として再生に取り組んでいる。石工たちの労働歌である「石切唄」や、ハレの日に石工たちにふるまわれた「石切り寿司」などが、今も島に根付いている。

シンポジウムで披露された「石切唄」

2市2町の石の物語は、2019年5月『知ってる!?悠久の時が流れる石の島』のタイトルで日本遺産に認定された。その活用手法をテーマに、翌年2月、笠岡市でシンポジウムが開催され参加した。 幹事の小林嘉文笠岡市長ら2市2町の首長の結束力は強く、各島を結ぶチャータークルーズなど、島文化の魅力を繋ぐ、テーマ旅の商品づくりなどに取組んでいる。物語にある感動・共感をどう活かすか、島民など市民の誇りや自覚をどう促すか、一過性のイベントではなく、島の再生につなげる持続的事業をどう生み出すか。課題は少なくないが、新たな取組みに期待したい。

石に関連するテーマの日本遺産には、大谷石の採掘現場『地下迷宮の秘密を探る旅』(栃木県宇都宮市)や『播但貫く銀の馬車道・鉱石の道』の生野鉱山(朝来市など3市3町)など、他にもたくさんの事例がある。これら鉱山系の日本遺産物語については、次号以降で改めて紹介したい。 

 

ライター
丁野 朗

ちょうの あきら

観光未来プランナー、公益社団法人日本観光振興協会総合研究所顧問、元東洋大学大学院国際観光学部客員教授、文化庁日本遺産審査評価委員
 

マーケティング・環境政策のシンクタンクを経て、1989年(財)余暇開発センター移籍。「ハッピーマンデー制度」や「いい夫婦の日」の提唱、産業観光などの地域活性化事業に携わる。2002年(財)日本生産性本部、2008年(公社)日本観光振興協会常務理事総合研究所長を経て、2017年よりANA総合研究所シニアアドバイザー、2020年より日本観光振興協会総合研究所顧問に就任。 観光庁、経済産業省、スポーツ庁、文化庁などの関係省庁委員や栗原市、呉市(顧問)、横須賀市、小田原市、舞鶴市、越谷市、益田市など各地の観光アドバイザーなどを務める。他に日本商工会議所観光専門委員会学識委員、全国産業観光推進協議会副会長、全国近代化遺産活用連絡協議会顧問なども務める。

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